『学校公演について思うこと』

これは
「JCJ神奈川支部通信」の方に頼まれて
2002年11月高知公演の際に書いたものです


「学校公演」に関わって早いもので10年以上が経ちました。
おかげさまで所属している劇団シアター2+1は
全国500校もの中学校・高校に招かれ、
シェイクスピア作『ロマンティックコメディー・十二夜』を上演し、
私は主役・ヴァィオラを演じてきました。

2時間という短い時間ですが、
出会った生徒の数はどのくらいになるでしょうか
?
あの頃、高校生だったあの生徒たちも、
もう立派な社会人になっているのでしょう。

「学校公演」・・・初めて芝居を観る生徒がほとんど、
ひょっとして一生芝居を観ないかもしれない…。

いつもの体育館が劇場になる。
授業がつぶれてラッキー
!!!
居眠りでもしょうとそっくりかえっている生徒が身を乗り出し、
夢中になる瞬間、舞台と客席が一体になる。
普段はまったく接点のない、
どちらかというと顔をしかめてしまうような彼らと私がつながる。
その喜び。
芝居の題名は忘れても、
演じた劇団の名前・私の顔など覚えなくても、
「生で観た芝居というものは面白かった」とそう思ってもらいたい…
それがこの仕事をしている最大の理由です。

10年間で生徒も学校も変わったように思います。
まず、感想が変わってきました。

以前は「ハラハラしたけど、最後はハッピーエンドになって良かった」
などストーリーに関するものが多かったのですが、
この頃は
「僕らの前で汗をびっしょりかいて一生懸命演じている…
この人たちは本当に芝居が好きなんだと思った。
僕も将来、そんな夢中になれる仕事につきたい」など、
演じている役者の生き方と自分を重ねるような、
そんな感想が増えてきました。

大人が懸命に仕事している姿を見る機会が少なくなったからなのでしょうか?
「大人が僕たちの前で馬鹿をやっている…」
演じるということは馬鹿になる
=心を裸にすることです。
そんな姿に驚く生徒が増えているようです。
一生懸命
=ダサイ…という価値観の代表のようにいわれる彼らですが、
このような真実も持っているのです。

全国各地の学校で上演していますと、
学校の方針、地域性等で、同じ芝居を同じ中学生・高校生に観てもらっても、
驚くほど反応が違います。

生徒の自主性を尊重し、
責任を持たせているであろうと思われる学校は、
芝居が始まる前は騒ぐものの、
始まってしまえば集中し、それを精一杯楽しもうとする姿勢が感じられます。
かなり管理しているだろうと思われる学校は、
体育館に生徒たちが入ってきても不気味なほど静かですが、
芝居が始まっても表情を崩さず、なかなか芝居の世界に入ってきません。
硬い空気が広がり、これをほぐすのに一苦労…。
そして中には、残念ながらまったく集中出来ない、
学校崩壊しているであろうと思われる学校…もあります。

こちらが裸でぶつかっていくので生徒も先生も
裸な部分をさらけ出してしまうのでしょうか
?

これを書いている今日、
私は高知の室戸岬の中学校で公演してきました。
実にのびのびとした生徒さんでした。
公演が終わり、すべての片付けが済んで学校を後にする時、
出会う生徒さんすべてが私たちに懸命に手を振るのです。
残念ながらこういう反応は都市部では見かけなくなりました。
なぜ…
?
前日泊まった宿でおばあさんが残ったご飯を水にさらしていました。
シーツや枕カバーの糊にするんだと、笑ってました。
あっ
!!! この方はきっと今日の生徒さんのおばあさんだ!!!
なんだか…納得。

生徒は学校を、先生を、親を、環境を、そして世の中を映す鏡。
生きる喜びはテレビの中にも、ゲームの中にもない。
生身の生きている人間とのぶつかり合いの中にしかない。
だとしたら、大人も裸で戦うしかないんじゃないかしら
?

嘘は全部暴いてやる!!!
待ち構えている彼らのあの目と勝負するために
「私はこういう風に生きている」と舞台の上でさらけ出す
!!
それが私の勝負の仕方。
そしてこれが、生の演劇「学校公演」。
これからも巡り合う生徒たちと素敵な勝負をしていきたいと思っているのです。
ふぅ…疲れるわぁ…。

 

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